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The MATAGI – 自然に踏み入る技と心

1334066588227_sp_matagi_002 狩猟のプロといえばマタギをおいて他にないだろう。しかし世間では本物のマタギはもういないと言う。ところが代々からの儀礼と精神を伝承するマタギは今も山の神と共存しているのだ。

文:田口洋美

Vol.01 The MATAGI – 自然に踏み入る技と心
狩猟のプロといえばマタギをおいて他にないだろう。しかし世間では本物のマタギはもういないと言う。
ところが代々からの儀礼と精神を伝承するマタギは今も山の神と共存しているのだ。
マタギたちと付き合いはじめた当初、気になって仕方がないことがあった。それは彼らの足の甲、親指の付け根から足首にいたる間が異常に高くなっていることに驚いたのである。

彼らの話では、重い荷を背負いながら山道を歩いてきた人間は、甲高になるのだという。
山を歩く場合、上りでも下りでも爪先を使うことが多く、すべての重さが足の親指にかかるため親指の付け根の骨が異常に太くなるのだ、と。当時、その甲高の足が山に生きてきたがために変形したのだなと思ったものだが、むしろ彼らの足こそが人間の足なのであって、僕たちのように平地をペタペタと歩いている扁平な足こそが変形しているのではないかと思いいたった。
人間らしい足のかたち、それは、歩きつづけている人の足であろう。人間の体は歩くためにできているといっても過言ではない。つまり、歩かなくなって久しい人間の足の形こそが、変形しているのではないか。

700万年にもおよぶ人類史のなかで、現代人ほど土の上を歩かず、肉体を駆使して生きるということから縁遠いところで生きている人類はいないだろう。近代、人類は新しい生活形態に移行したが、肉体は狩猟採集民時代のままで基本的に変化してはいない。
現代のように、人類が歩かず、肉体労働も分業化が進み同じことを繰り返す単純労働タイプに変わり、都市部の人間を中心に、サービス業や頭脳労働に多くの時間を費やす人々が増えてきたのはここ100年あまりの出来事といっていい。しかし、100年たらずで人間の肉体が生活形態に適応できる筈もない。もし現代生活に肉体が追いつくとすれば数万年先のことになる。

しかも、孤立した人類のグループなど、もはや世界中に存在しないので、地域のグループから突然変異が生じて肉体が現代の生活形態に追いつくという可能性はほとんど起こり得なくなっている。すなわち、現代のような生活形態と肉体の関係は、人類にとって初めての経験であり、肉体と日常との格差の広がりに肉体自体が驚嘆しているのではないだろうか、とさえ思えてくるのである。
それどころか、これほど頻繁に道具を買い換える人類もまた存在しなかったであろう。

生活形態、肉体、その間を取り持つ技術と道具の関係が、個々バラバラになってしまっているように見えるのだ。

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近世以来伝承されてきた伝統的なマタギ装束。昭和初期に撮影。スゲ編みの笠、濃紺に染められた木綿製の上着とカモシカやイヌの毛皮で作られたキカワ。(秋田県北秋田市教育委員会提供) 残雪期の4月下旬から5月初旬に特別猟期として実施されている春のクマ狩り。現在ではライフルの使用頻度が高まっている。山形県小国町にて。(撮影:田口洋美)

 

ところで、僕は雪のない季節に山を歩く場合、ほとんど地下足袋かスパイク付きの地下足袋を履く。マタギたちに山を学んできたので、山歩きはほとんど彼らの流儀に従っている。高標高の岩山や厳冬期などの登山の場合は別にして、めったに登山靴を履かない。正直言って登山靴には不慣れなのだ。地下足袋は、親指が効く。登山靴は足を足首から固定してしまうので、俊敏に山肌に反応して体重の移動をはかる場合には親指が使えず安定しない。登山靴の場合は、親指を岩や木の根などにかけて柔らかく体重を支えるということができない。とくにブッシュなどをトラバースしたり、上り下りする際には親指が使えるとかなり楽である。これは、どのように山歩きを覚えてきたかで違ってくるのであるが、技術はそれを使うに相応しい肉体を求めるものである。アルペン式の西洋登山技術を学んだ人たちの肉体は、その技術を使いこなすような肉体になり、また道具も西洋の登山用具を求めるであろう。僕のようにマタギという伝統的行動様式に従ってきた人々から技術を学び、歩くようになると体も日本の山にあった体になり当然身の回りの道具もまた山に生きてきた人々が使ってきた道仕立てが体に馴染むようになる。

つまるところ、基本的な考え方がマタギたちのそれと西洋登山とでは異なるのである。そのため、少なくとも登山靴を履いてマタギたちの山行きに同行するのは無理である。狩りの時でも、よく山をやっていますからといって自信ありげにマタギたちの狩りに同行する人がいるけれども、まずほとんどの人が付いてこられない。山を楽しむ登山の歩き方と、狩猟や採集で山を歩くのとでは目的が異なるだけでなく、歩く場所が違う。使う筋肉も当然違う。狩猟や採集をする場合、ほとんど登山道は使わない。道なき山を歩くのである。渡河するにも橋などない浅瀬を渡ってゆくことになる。そのような山行きに相応しい肉体こそが、山に暮らす人々の理想的な肉体なのである。

今日、東京の街中で、雨の日に長靴を履いて歩く人はほとんど見かけない。かつて、人々は天候によって、あるいは出かける目的や場所によって、さらには季節によって履き物をこまめに取り替えていたのであるが、現代の都市生活ではほとんど二、三種類の靴だけですんでしまう。
逆に二、三種類の履き物ですませられるほどに足下が整備されてもいるということになる。果たしてそれが良いことか、悪いことかは別にして、もう一度肉体と技術、そして道具の関係を考え直しても良い時期にきているのではないだろうか。

秋田県の阿仁マタギは、雪の季節に足が雪に潜らないように履くカンジキ(現代では西洋型のスノーシューが流行っているけれども)でも、大きく四種類を雪の状態に合わせて履き分けていた。降雪期の1〜2月に家の周辺などの雪道を踏んで歩く直径40~50センチもある二丁カンジキ、同時期に山へ入る際に履く小振りな丸カンジキ、降雪が止んで雪が硬くしまってきたときに履くワリカンジキ、さらに春先雪が凍り付いてくる時期に履くカナカンジキ(金属でできた三爪のアイゼン)といった具合である。環境の微妙な変化に対して、人間の側が道具を替えることで対応してきたのである。現代文明は、人間の都合に環境を合わせようとする。しかし、マタギと称する伝統的狩人たちは、環境に肉体を合わせ、さらに道具と技術によってこれを補完してきたのである。

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昭和初期、岩手・秋田県境の八幡平で撮影されたもの。現在の北秋田市阿仁打当のマタギ組による春のクマ狩りでの記念写真。(秋田県北秋田市教育委員会提供) 長野県下水内郡栄村秋山郷の檜俣川の猟師小屋。1990年代半ばまで秋山郷のヤマビトたちは猟師小屋に泊まりながらクマ狩りを行っていた。(撮影:田口洋美)
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現在でも厳冬期に行われるウサギ狩りでは長靴に輪カンジキで足下をかためる。
(撮影:田口洋美)
北秋田市阿仁打当でのクマ曳き。近世後半、クマを丸ごと一頭買い取る豪農や豪商が現れて以来、里にクマを曳いて下ろす習俗がはじまったと推定される。(撮影:田口洋美)

 

ところで、秋田県の阿仁マタギは、クマを捕獲すると「ケボカイ」という儀礼をおこなうことで知られている。ケボカイとは、一般に「毛祭り」とも呼ばれるもので、捕獲した獣の毛皮を用いて山ノ神を奉ることをいう。

阿仁の場合、各マタギ集団の統率者であるシカリがおこなうもので、その儀礼の方法にはさまざまなかたちがある。シカリは、先輩のシカリが引退する前に指名するものなので誰もがなれるというものではない。人望があり、山の知識や猟の差配に優れているだけではなく、山ノ神とマタギとをつなぐ術を伝授するに足りる人でなければならないとされている。術というのは山ノ神から霊力を引き出す方法をいう。
つまりは自然をつかさどるカミとしての山ノ神から自然の力、獲物を呼ぶ力、あるいは雪崩などの災害から自分や仲間を守る力、傷病者の治癒力を引き出す力などである。

そのため、この術の方法、カミの力を引き出す作法は、誰を師匠としたか、誰から術や作法を伝授されたかによって微妙に異なってくるものだといわれる。科学技術が進歩し、論理的な説明をする可能性に乏しい観念は迷信であると、現代の社会では受け入れられないものとなっている。縁、運、巡り合わせ、偶然、狩猟で生活の一部を賄おうとした人々にとって、獲物である野生動物を捕獲できるか、できないかは、いかに優れた技術や用具をもっていてもカミの助力なくしてありえないと考えられていた。

阿仁打当マタギのシカリであった鈴木松治さん(故人)のケボカイは、捕獲したクマを集落まで持ち帰り、集落内で解体した。まず、クマの頭を北向きに寝かせてカワダチをおこなう。カワダチというのはクマの毛皮を剥ぐことである。皮を剥ぐとケボカイの儀礼になり、剥がされた毛皮の頭部を南側に持ち(頭と尻が逆になる)山ノ神に唱えごとをする。
このとき他のマタギたちは横たえられたクマの周囲を輪になって囲み、クマの霊をカミのもとへと送り届ける。同じ阿仁比立内の松橋茂治(故人)・時幸さん親子の場合は、捕獲した後、山ノ神の社前にクマを運び、クマの頭を北向きに寝かせる。そして、モロビ(アオモリトドマツ、オオシラビソのこと)の枝葉でクマの体を撫で清めながら唱えごとをする。「南無財宝無量寿岳仏」と七度、「光明真言」を三度唱え、最後に「これより後の世に生まれて良い音を聞け」と唱えた。ケボカイの儀礼は、さらなる獲物を集団に授けてもらえるように、祖先達がかつてカミと交わしたと伝えられる約束の文言をくり返し唱えることで願いが成就することを祈るのだという。

山形県小国町の五味沢では、クマを獲っても集落に持ち帰ることはしない。クマを捕獲した場所でクマの頭をその日猟にいっていない方角に向け、仰向けに寝かせる。次にクマの下顎にキリハ(山刀)をあて、カワダチをおこなう。皮を剥ぐと、そのグループの親方(五味沢ではシカリとは呼ばず狩猟集団のリーダーを親方という)が毛皮を持ち、山中にむかって毛皮をかざし、小声であるいは胸の中で山ノ神に唱え詞を捧げ、クマのむき身に毛皮の裾を三回触れさせる。そして再び、毛皮をクマの上にかける。五味沢では、この儀礼を「カワキセ(皮着せ)」といっておりケボカイとはいわない。

カワキセが終わると数人でクマの腹を割く。そしてまず、ホナ(心臓)をアカフク(肺)と一緒に取り出し、唱え詞を唱えながらホナにキリハで十字の切れ目を深く入れる。これを「ホナワリ」と呼んでいる。

新潟県岩船郡朝日村三面では、ホナワリを「ホナビラキ」と呼び、一連の儀礼、唱え詞の内容もほぼ五味沢に類似しているといっていい。そして「七串焼き」という山ノ神へ肉(シンガメと呼ばれる腰の肉、牝の場合右側を、雄の場合左側の肉片七切れづつを七本の串に刺す)を捧げる儀礼がこれにつづく。いずれの地域でも、クマを捕獲すると山ノ神へ、クマを捕獲した報告をおこない、次に捕獲されたクマの魂を送る儀礼をおこなうことに変わりはない。

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秋田県阿仁打当でのケボカイ。(撮影:田口洋美) 山形県小国町五味沢でのカワキセ。クマを捕獲すると毛皮を剥ぎ、山ノ神に捕獲したことの報告とクマたちの繁栄を祈る唱え詞を捧げる。(撮影:田口洋美)
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羽越マタギにとって現在でも狩猟の手続きとして重要視されるホナワリ。(撮影:田口洋美)美) 1993年春、長野県秋山郷で捕獲された体重210キロの大グマ。(撮影:田口洋美)

 

 

マタギと称する人々は、ホナやアカフクなど独特のことばを用いるが、これをマタギ詞、山言葉という。狩猟の世界では、猟場に入ると俗世間で用いられていることばを使用してはならないという山の法というものがあった。現在では、一部の猟師を除いて、この狩りでの特別なことばを用いる人はいなくなった。かつて、狩猟が生活の上で重要な役割を担っていた当時は、厳格に守られていたことがらだ。

実は、狩猟の際に日常生活と異なった言葉を使用するという事例はマタギたちだけのものではない。アイヌの人々や極東ロシアの先住民族ウデヘやナーナイ、ヨーロッパの伝統狩猟のなかにも登場することであり、断言はできないが人類普遍のものといっても良いかも知れない。では、なぜ狩猟の現場ではこのような厳粛さが継承されつづけてきたのか、それは今も尚明らかにされてはいない。

マタギという生き方は、山ノ神と独自の契約を結ぶことによって、動物の確実な捕獲と獲物となる動物たちの繁殖を実現しようとしたのである。独自の契約というのは、獲物を捕獲するということは、山ノ神から資源を奪い取ることであり、その奪い取る権利をマタギたちにのみ許して貰うという契約である。このような契約は、資源の独占化をも意味するが、決して野生の生命を粗末にあつかわず、山ノ神が定めた手続きに沿って狩猟をおこなうというものであった。それはまた狩猟をおこなう以前から狩猟を終え、動物を解体し、肉や毛皮をあつかう道具や所作にいたるまで、ことごとく定められた山ノ神の法に則っておこなわなければならない、というものであった。

狩猟とは、野生動物などを捕殺する行為と単純に理解するのは誤っている。狩猟は、出かける準備段階から猟場に入り捕殺し、カミにその許しとその後に関する応答の一切を終えて、肉や骨、毛皮などの有効な資源を活用するに至るまで一連の手続きすべてを指すのだ。
東北、北海道、ロシアの儀礼にマタギの歴史が見えてくる

クマに対する送り儀礼といえばアイヌの人々がおこなうイヨマンテが知られている。イヨマンテはカミの国へクマを送る儀礼であるが、いかに人間の世界で温かいもてなしを受けたかをカミの国へ伝えてもらうために沢山のみやげもの(イナウ)を捧げる。またアイヌの人々の場合には穴熊猟で生け捕りにした仔グマを飼育し、これを儀礼の際に弓矢を用いて殺すという方法をとる。

このようなクマに対する送りの儀礼は、北方ユーラシアから北米などの北方圏に普遍的に見られる。これまでの数多くの研究者が指摘してきたことであるが、クマの送り儀礼には大きくふたつのタイプがあるとされる。ひとつは、北方ユーラシアから北米、そしてマタギなどに見られるクマを捕獲した際に送り儀礼をおこなうオプニレと呼ばれるタイプと、ロシア連邦極東アムール川流域のウリチ、オロチ、サハリンのニブヒ、北海道アイヌに見られるような仔グマを生け捕り、飼育したうえでおこなうオマンテと呼ばれるタイプのものである。後者が前者の発展型と解釈されているが、飼育型のクマ送りはアムール川流域の先住民族から北海道アイヌに分布し、かつての中国清朝時代の毛皮交易圏(サンタン交易圏など)と重なり、家畜文化の影響下において波及した形式ではないかと考えられている。

このように見ると17世紀から19世紀に見られた極東アジアの毛皮交易圏の外に位置づいてきたマタギに古い送り儀礼の一形式が取り残されたかたちで残存したと考えることができる。また野生動物資源がその地域でどのように位置づいてきたのか、その社会の歴史的な文脈が信仰や習俗に色濃く反映されてもいることが理解できるのである。実際にこれらの儀礼に立ち合ってみると、僕たちの祖先たちがいかに自分たち人間が他の生命の犠牲によって反映し、生かされてきたか。その自覚をどれほど強く認識していたかを教えられるのである。

重要なことは、極東ロシアの先住民族や北海道アイヌ、さらに東北のマタギたちも、こうした精神的世界、カミとの契約とその履行についても技術として理解してきたということである。肉体と道具を駆使して狩猟を実践する現場の自然環境に適応することも技術であるが、捕殺され人間によって利用される野生動物のこころを和ませ、祟ることなく、自分たちの家族の反映と行く末に共に生き合う仲間として扱う礼儀も生きてゆく上で必須の技術、術として了解してきたのである。

もし、科学技術の進歩が、僕たちに心の平安と幸福を与えるものであるならば、マタギたちのようなカミとの契約の更新を考えなければならないだろう。

 

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村田銃や弾帯から昭和10年代の撮影と推定。秋田県北秋田市阿仁根子集落の根子神社での記念写真であるがクマの毛の状態から5月上旬の捕獲と思われる。(秋田県北秋田市教育委員会提供) 春のクマ狩り。現在でも、狩りで猟場に入るときには毎日山ノ神の祠に参り、猟の安全と猟果があることを祈ってから山に入る。山形県小国町五味沢にて。(撮影:田口洋美)

 

田口 洋美
1957年、茨城県生まれ。近畿日本ツーリスト(株)日本観光文化研究所主任研究員を経て、現在、東北芸術工科大学教授。東京大学大学院新領域創成科学研究科博士課程修了(博士:環境学)。専攻:文化人類学、環境学。著書、『越後三面山人記-マタギの自然観に習う-』(農山漁村文化協会 1992)、『マタギ-森と狩人の記録-』(慶友社 1994)など。