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銃と自転車の赤い糸

sg_1305_02main 宮田製銃所が明治23年に作り上げた試作自転車。サドルからスポーク、チェーン、ベアリングに至るまで、製銃技術を駆使して作られた自家製だった。 

文 : 竹村吉史

 

銃と自転車の赤い糸

 

思いの外に多かった銃メーカーの自転車製造

本誌の創刊以来、世界の銃生産地への取材を続けてきたが、銃の生産地が自転車やバイクの生産地という事が多かった。最初はどちらも欧州の得意とする製品なので気にも留めなかったが、取材を重ねる度に「偶然にも程がある」と感じ始めていた。

 

製銃メーカーとして自転車の製作を行った企業を調べてみると、FNブローニングで知られるファブリック・ナショナル社、通称FNベルギー社。ケメンを筆頭に中小の銃器メーカーが集中する、スペイン・バスク地方のヨーロッパ最大の自転車メーカーオルベア社。5人の鉄砲鍛冶によって生まれたイギリスのBSA社も1881年から自転車製造を始めている。BSA社の正式名称はバーミンガム・スモール・アームス社だが、その名称のまま自転車からオートバイ製作にまで進化したメーカーのひとつ。さらにイギリスのロイヤル・エンフィールド、スウェーデンのハスクバーナー、アメリカのアイバー・ジョンソンなど、銃と自転車の関係は「赤い糸」で結ばれていたとしか思えないほどのメーカー数が挙げられる。

 

不思議なことにこの関係は、日本に於いても同様で、シマノを始めとする自転車の一大生産地として知られる大阪の堺も、泉州堺として有名な火縄銃生産地だったことは周知の事実。さて泉州堺と共に、銃の二大生産地として肩を並べる江州国友はどうかというと、滋賀県内に丸石自転車の前身となる石川商会があったものの、当時は絹織物などの貿易商で、後にアメリカ製自転車ピアス号を輸入しているに過ぎない。よって国友の里に自転車メーカーが存在した形跡は見あたらない。しかし、日本に現存する和製ダルマ自転車の一台に「明治二拾四卯年四月上旬 国友作之」と刻まれていることから、江州国友が自転車製造に関わっていたことは想像に足る。

 

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上横長の写真は宮田製銃所を興した宮田栄助による火縄銃。上もやはり宮田栄助によって作られたものだが、これは銃身に徳川家の葵紋が入った貴重な物。

 

明治24年製オーディナリー自転車のフレームに「明治二十四年四月上旬 国友作之」と刻まれる。国友鉄砲鍛冶の末裔が作ったもので、鉄車輪に木製スポーク、バネ付きのサドルが採用されている。

 

あの自転車メーカーも国友鉄砲鍛冶の流れを汲む

一方、話は遡り、1881年(明治14年)、東京京橋に宮田製銃所が誕生している。創業者は水戸藩鉄砲指南役の国友家に師事して製銃技術を身につけた宮田栄助で、常陸国笠間藩の御抱え鉄砲師として名字帯刀が許可された人物だ。1867年頃に起きた明治維新による廃藩置県令により、笠間藩から雇用を解かれたのを期に宮田製銃所を興したのだった。栄助は次男の政治郎が11才を迎えると、当時東京銀座で製銃所を構えていた国友信之門下に5年間入門させ、国友鉄砲鍛冶の製銃技術をみっちり叩き込ませたという。文明開化と共に育った政治郎は、江州国友流の製銃技術を基盤に様々な機械器具を作り上げ、その優れた技術と設備により、陸軍から村田銃の発注を受けるまでになった。

 

19世紀後半といえば、イギリスで始まった産業革命から約100年。欧米では金属の加工技術も高まり、第一次産業が大いに発展した躍動の時だった。自転車は三輪車のように前軸に取り付けられたペダルを漕ぐベロシペード型から、さらに走行スピードを高めるために前輪を大きくしたオーディナリー型、つまりダルマ自転車へと進化していた。1885年には、イギリスで現在の自転車形状に近い安全型自転車が登場し、日本でも築地鉄砲洲にあった居留地に住む外人などが乗り回すようになった。

 

何時しかその自転車は、修理のため機械加工技術に長けた政治郎の元へ持ち込まれるようになり、宮田製銃所のもうひとつの仕事となって行く。自転車に将来性を見出した政治郎は、1890年(明治23年)に日本初の安全型自転車を完成させると、1902年(明治35年)には一切の猟銃製作部門を廃止し、社名も宮田製作所に改変した。その宮田製作所こそ、ミヤタ自転車や消化器で知れ渡る宮田工業の前身だったのである。

 

当時、自転車のフレームに使う輸入鋼管は、供給が追いつかないほどの需要があったため価格も高く、手間は掛けても国産化したほうが価格も安く安定供給することが見込めた。パイプを国産化するにあたり、鉄砲鍛冶の持つ高度な銃身加工や焼き入れ技術が大いにもてはやされたという。無垢の鋼材を旋盤で穿孔して作られた明治期の村田銃用銃身はシームレス鋼管であり、アメリカ製の高価な合わせ鋼管と比較しても強度も高く、自転車用フレームとしては贅沢な素材だった。政治郎の作った安全型自転車のフレームを見ると、外径約φ20mmの12番銃身かそれより僅かに太いパイプが使われているのを見ることができる。つまり銃身製造からフレーム製造への転用は、大した労を必要としなかったのではないかと思われる。

 

その後、宮田製作所は1935年(昭和10年)にアサヒ号AA型175cc軽オートバイを量産し、国内のオートバイのパイオニアとして、さらに国産オートバイのトップメーカーとなるまで成長した。まさに鉄砲鍛冶が日本の工業界を牽引したのである。

 

 

銃の発展があってこそ 現在の工業製品が生まれた
銃の生産地が自転車の生産地へと移り変わった理由は、鉄砲鍛冶の持つ特異な金属加工技術と、銃製造に使われた工作機械が自転車製造に転用できたからに他ならない。また銀輪部隊など、自転車が各国の軍で採用されたことも、軍需産業という共通項として考え得ることも難しくない。

 

火縄銃から始まる銃の製造技術は、鍛冶技術を向上させ、ウィットネジを生み、火薬を進化させてきた。さらに金属加工技術と精度を高めて、自転車、オートバイ、自動車を作り上げてきた。野鍛冶とは一線を画す、高度な加工技術を生んでは伝承してきた鉄砲鍛冶だったからこそ成せた業だといえる。

 

古来、銃は国の威信を掛けて開発されてきたモノであり、現代のNASA並の開発力が注がれてきたはずである。工業製品の発展に銃が大いに貢献してきたことは、ガンシューターとして胸を張れる事実と覚えておきたいことである。

 

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昔は銃砲店で自転車が販売されることが多かった。広告の大倉組銃砲店は、宮田政治郎に12番宮田銃の販売を促した銃砲店だ。(明治26.9.7 東京日々新聞) 銃はもちろん、自転車も軍用として利用された。写真はスイス陸軍が最近まで使用していた軍用自転車。

 

 

資料提供

宮田工業株式会社

http://www.gear-m.co.jp/

滋賀県北部の地域情報誌「みーな びわ湖から」

http://www.biwa.ne.jp/~miina/

 

SPORTS GUN GUIDE BOOK 2008 掲載