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和銃の歴史から紐解く 日本の火縄銃
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銃は科学の発展に伴い進化してきた。しかし、火縄銃の伝来から始まる日本の銃の進化は、近代化の遅れにより停滞したと思われがちだ。だが実際は、独自の工夫により「和銃」と呼べるものに進化しているのである。その歴史を紐解いてみよう。
Text:霜 禮次郎 Photo:竹村 吉史 Illust:高岡 理恵子 |
世界へ伝播した火薬と銃
火縄銃の日本伝来地は種子島にあらず!?
種子島に漂着したポルトガル人によって日本に鉄砲(火縄銃)がもたらされたのが1542年。以来、火縄銃は「タネガシマ」と呼ばれ国中に広まったと言われてきた。ところが、近年の教科書では、種子島は一例で、火縄銃はほぼ同時期に九州各地に伝来したと書かれている。
しかも、その銃は欧州製ではなく、ポルトガルが進出していたマレー半島のマラッカ王国製という説が強かった。しかし、私が国内の古式銃を検証したところ、大航海時代に銀などを求めて海外進出を目論んだポルトガルの兵士が携行していた欧州製の火縄銃が上陸したと思われるのだ。
この伝来した火縄銃が、砂鉄によるたたら製鉄の技術に長けた日本の刀鍛冶によって模造され、戦国時代には長篠の戦いを始めとする多くの合戦で使用されることになるのはご存じの通りだろう。

タッチホール式からマッチロック式への進化
火縄銃は金属製の銃身に弾丸と火薬を銃口側から装填(前装式)し、中の火薬を火種(火縄)で着火して爆発させることで発生するガスの圧力で弾丸を射出する仕組みだ。初期は、銃身の後端に開けられた点火口に直接手で火種を押しつけて中の火薬を爆発させる単純な構造で、この着火方式は「タッチホール式」と呼ばれる。この着火方式は射手が重い銃を保持しながら火種を扱わなければならず、使いづらい代物だった。
しかし、このタッチホール式は、構造が簡単なので、銃身を手で支える必要のない台座式の大砲などには19世紀に至るまで採用されてきた着火方式だ。
15世紀頃になると欧州で、S字形の金具とバネを用いた着火機構(カラクリ)を採用したサーペンタインロック式が登場する。「サーペンタインロック式」は金具の一端にある火鋏に火種を装着した銃で、火種に火縄を用いた物がいわゆる火縄銃であり「マッチロック式」とも言われる。この着火方式は、射撃の際に引き金を引いて(あるいはボタンを押して)金具の留め具を外し、火皿の点火薬に火縄を押しつけることで点火して銃腔内の本火薬を引火爆発させるのが大まかな作動原理である。
このマッチロック式の登場によって射手は重い銃を照準しながら火縄を操作する煩わしさから解放されることになり、射撃の精度に加えて射程距離も大幅に向上したのである。
ひと口にマッチロック式の火縄銃と言っても欧州で普及した比較的小型軽量なアルケビウス銃や頑丈な造りで威力も高い大型のマスケット銃など多彩な種類があり、また、着火機構によっても、引き金を引くとゆっくりと火縄が火皿に落ちるスロー(緩発)系と、瞬時に火縄が落ちる、スナップ(瞬発)系に大別することができる。
スロー系は、オスマン・トルコなど当時科学研究の最先端であったイスラム文化圏で普及した機構で、一方のスナップ系はドイツに始まり欧州圏で普及した機構だ。スロー系はバネによって常に火縄が持ち上がった状態になっており、引き金を引く速度に合わせてゆっくりと金具が下がり火縄が火皿に落ちるように作動する。一方のスナップ系は、引き金を引くとバネによって、火縄が瞬時に火皿に落ちるのである。
銃に大きな進化をもたらしたマッチロック式だが、雨天では運用しにくく、また、火縄の臭いや煙、発光によって、敵に察知されてしまうという弱点もあった。
17世紀になると、扱いづらく密集隊形では意図しない引火の危険の伴う火縄を使わない、ホイールロック式やフリントロック式の着火機構が発明され、銃は更に進化を遂げる。
ホイールロック式は、ぜんまい仕掛けで回転するホイール(鋼輪)にハンマーに装着した黄鉄鉱などを打ち付けてオイルライターのよう着火する機構だ。火縄のデメリットを克服したホイールロック式だが、構造が複雑で高価になり、着火の確実性にも問題があった。
次に火縄の代わりにフリント(火打ち石)を使ったフリントロック式が登場。火皿内に火花を閉じ込める機構を備えたフリントロック式はホイールロック式よりも構造が簡単で安価な上、不発率も低かったが、火花による着火は、火縄による着火よりも確実性に欠ける場合があった。

タッチホール式
一番原始的と言える銃砲の点火方式。銃身に開けられた点火口に手で火種を押しつけることによって銃身の中の火薬を場発させる。台座があって複数人で操作する大砲などでは19世紀まで使用された。
マッチロック式
いわゆる火縄銃の点火方式。引き金に連動する金具に付けた火縄を、火薬を盛った火皿に叩きつける事で着火。その火花を導火孔(点火口)から銃身の中の火薬に伝播させて爆発させる。
ホイールロック式
鋼輪式、歯車(しりん)式とも言う。ゼンマイ動力を使って鋼輪(ホイール)を回転させて金具に装着した火打ち石(黄鉄鉱など)を打ち付けることで火花を発生させ火薬に点火する。
フリントロック式
仕組みは火縄銃同様だが金具の先端にフリント(燧石・すいせき)を装着。引き金を引くとフリントが火蓋を兼ねたL字形の金具「フリズン」に擦り付けられて火花を発生し火皿の火薬に点火する。
日本で独自に進化した伝来銃
一発必中の和弓射法に通じるスナップ系が受け容れられた
16世紀に日本に伝来した火縄銃は、瞬く間に戦国時代の日本各地で生産されるようになり、その数は数十万挺以上とも言われ、世界最大の火縄銃保有国家になっていく。
前述したように17世紀になると海外ではホイールロック式やフリントロック式が登場するが、16世紀以降、日本で独自に進化し全国に広まった和銃にはそれらの新たな着火機構は採用されることはなく、ほとんどがスナップ系のマッチロック式となっている。これら新たな着火機構の銃は南蛮交易により日本にも入ってきていたはずだが、何故造られなかったのか?
その理由のひとつとして、17世紀の日本では、戦国時代は終わり、大きな戦乱のない江戸時代に入っていたことが考えられる。複雑な機構の新型銃はそれほど必要とされなかったのであろう。
もうひとつの理由としては日本と西洋の鉄の材質の違いが考えられるだろう。西洋銃の銃身や着火機構部分の材質は鉄鉱石を原料とした強く表面が滑らかで清掃しやすい洋鉄で、和銃のそれは砂鉄を原料とするたたら鉄である。
たとえフリントロック式の銃が日本に伝わっていても、フリントと鉄の衝撃に対する反発力に乏しい日本のたたら鉄では、日本式のフリントロック(強力なバネとネジが必要)は作れなかったのではなかろうか。
また、スロー系の火縄銃も伝来している事実があるのに、何故日本では、スナップ系が根付いたのだろうか?
実は、日本でスナップ系の火縄銃が広く受容された理由を裏付けるはっきりとした資料は見当たらない。
そこで、火縄銃の射手の立場から、その理由を推測してみよう。
当時の火縄銃の一級資料である江戸時代に記された『鉄砲記』には、種子島において鳥を撃ち落としたという記述があり、火縄銃を軍用ではなく狩猟に使用していた事実があったことを示している。
軍用でも、狩猟用でも、命中精度は重視されるが、とりわけ動く鳥獣を相手とする狩猟を目的とした場合、引き金を引くチャンスが最も重要となる。
日本の火縄銃は「鳥銃」と言われている通り、命中率を重視したスナップ式が選択された。では、火縄銃を武器として見た場合も推測してみよう。
火縄銃伝来以前の合戦においては、刀、槍、弓が主武器であり、特に弓は、世界に類を見ない長さを持つ和弓であった。和弓は火縄銃伝来の前後も長く使用されてきた武器であり、遠くの的を狙うという点では火縄銃と通じるところがあった。
和弓は流鏑馬や弓道から分かるように一発必中のごとき射法であり、これは火縄銃のスナップ射法の速射法に類似している。
戦国武士が、欧州の火縄銃の射法であるスナップ式とスロー式のどちらかを選択したとするならば、この一発必中の手技であるスナップ式を選択したのではなかろうか。
また、スロー系の火縄銃はどちらかというと集団戦法向きだ。的を射る精度よりも厚い弾幕を張るために用いられる。これに加え、日本では梅雨など湿気の多い気候(和銃の特徴である割火蓋は湿気による不発防止のため。洋銃は一枚火蓋)も考慮する必要があるだろう。ゆっくり動くスロー系では湿気の影響を受けやすいと思われる。
また、スナップ系はボタン式にしても引き金式にしても強いバネは必要ないため、銃床は小型で充分で、和弓のような頰付け射法ができる。
以上のような推測から日本では、的を狙いやすく俊敏に動作するスナップ系が好まれた可能性が考えられよう。

日本に於いては、古くから弓を横に構える洋弓ではなく縦に構える和弓が定着していたことも、日本でスナップ(瞬発)式火縄銃が普及したことに影響したのではないかと考えられる。
日本の「たたら鉄」について
近年の説によれば、古来日本列島は大陸より分離し、太平洋に沈み、海底火山(マグマ)となり、その後隆起して、現在の日本列島が形成されたという。
地球の重量の主体となる鉄は、マグマ(火成岩)に存在し、火山列島として知られている日本では、全国の山や川、海に、時に磁鉄鉱が風化した砂鉄として存在する。世界の中でも、特色のある砂鉄の産地なのだそうだ。また、硫黄も火山国の産物である。
日本では、砂鉄を精製して、たたら鉄をつくるが、このたたら鉄の特色は、硬い鋼と軟鉄(包丁鉄)が同時に製造される点にある。
古墳時代に大陸から移入された大刀(洋鉄製とと思われる直刀)は、見事にたたら鉄(和鉄)を使って、平安時代に至って、美しい反りのある日本刀が完成された。 戦国時代に伝来した火縄銃もまた、この日本刀と同様に、和鉄(主として包丁鉄)をもって、非常に早期に模倣、完成をみた。これは、日本全土の鍛冶職人の技術の成果であると火縄銃研究の先達も述べている。
鉄の鍛冶を神様として祀ってあるのが、神社であるという説もある。最も有名なのが、千葉県にある香取神宮やその系列にある神社であろう。また、鉄に関して、民芸として残っているものもある。代表的なものは、島根県のたたら鉄産地の「安来節」である。別名「どじょうすくい」ともいわれ、砂鉄を採る動作を、民謡に合わせておもしろおかしく踊るのが安来節である。
加えて「ひょっとこ踊り」がある。「火男」イコール「ひょっとこ」と訛ったものだ。たたら鉄をつくる火床の中を片眼で覗き、つの口で火を吹く姿を表している「ひょっとこ面」はおどけた踊りにつながっていく。おたふくの女面は、火床を表しているのだという。
鉄砲鍛冶の高度な鍛造技術により造られた
日本の刀鍛冶達が挑んだたたら鉄による和銃作り
伝来した火縄銃はどのようにして国産化されていったのだろうか。
『鉄砲記』によると種子島の領主は手に入れた伝来火縄銃を島に住む刀鍛冶に渡し銃身の模倣を命じたという。そして、刀鍛冶は見事に模倣し、火縄銃を完成させた。領主はその模倣銃を島津家に献上し、島津家はさらにその銃を足利将軍家に献上したという。将軍もことさら新しい武器に関心を示し、さらに
その銃を国友鍛冶集団に渡し模倣を命じたと伝えられている。
まず、種子島で、また国友で、どのようにして火縄銃の模倣が行われたのかを考えてみよう。
欧州で製造されたアルケビウス銃の銃身は洋鉄製で、爆発の大きな圧力を受け止めなければならない尾栓やカラクリの固定、火鋏には、それまでの日本では製法が知られてなかったネジが使用されている。
では、このような火縄銃を見た日本の刀鍛冶はまずどんな行動に出たのだろうか。それを推測するために日本の鉄文化の一端を日本刀の成立で振り返ってみよう。
日本では、大陸から渡来した剣(直刀)を各地に豊富に存在する砂鉄によって模倣し、見事な日本固有の日本刀を作った。平安時代に出現したと言われているがそれから400年以上の年月を経て、日本の鍛冶職人たちは火縄銃に出会うことになる。
たたら鉄を美しい日本刀に鍛え上げる高度な技術を持つ刀鍛冶にとって、火縄銃の形だけの模倣はそれほど難しいことではなかったかも知れない。
しかし、火縄銃には火薬の爆発を制御するという、職人たちがそれまで経験したことのない物理的な問題があった。表面が滑らかで硬い洋鉄と細かな凸凹があり脆いたたら鉄という材質の違いから生まれる問題もあっただろう。
その証拠に、和銃では弾丸発射後の銃腔内に火薬の残渣が多く残り掃除してもなかなか除去しきれず、一発毎に銃腔径が狭くなるのである。また、弾丸を発射する度に銃腔内の脆い砂鉄が剥がされて銃身が薄くなる。したがって、繰り返し弾丸を発射すると銃身破裂を起こす事故にもつながる危険がある。さらに銃身の末尾に尾栓を鍛接して塞ぐ場合、接合部が徐々に弛み尾栓が逆発射のように射手に向かって暴発することも予想できよう。
真金と荒巻
まず銃身サイズの鉄板(瓦金(かわらがね))を打って鍛える。これを芯となる真金(しんがね)に巻き、筒の形に成形し接合部が密着するまで鍛える。これを荒巻という。
二重巻張り
平たく細長い鉄板(巻板)を荒巻に巻き付けて鍛える(鍛接)。この巻板を二重に巻くことで、銃身破裂に対する安全度を高めた銃身が二重巻張りであり、二重巻張と銘記される。
尾栓ネジ
爆発の高い圧力を受け止める銃身後端部は、日本に存在しなかったネジが必要とされた。ネジ切りは、鉄砲鍛冶にとって秘中の秘とされ、製造工程に関する詳細な資料はほとんどない。
カラクリ(着火機構)
平カラクリは日本独自に進化した真鍮製毛抜きバネが使用され、欧州の研究者らはこの機構を日本製と認識している。なおゼンマイカラクリはゼンマイによって動作し、機構が銃床内部に収められた内カラクリとなっている。
マッチロックで浸透し完成した和銃
『鉄砲記』には、銃尾を塞ぐことの難しさが物語風に述べられ尾栓を「ネジ」止めしてあるという技術面での重要な記述がある。
しかし、当時の日本には「ネジ」は存在しなかったのである。
これを鉄砲鍛冶職人がどのように製作したのかは明らかにされていないが、銃身を巻張りにするなど、たたら鉄を熟知した職人達の完成度の高い技術によって克服したものと言えよう。
『鐵の道を往く』(鉄の道文化圏推進協議会・編集・山陰中央新報社)では、『戦国時代の銃身では、熱間鍛造による尾栓の雌ネジ(銃身側)素材には三原鉄が、重要部分である雄ネジには出雲鉄が多く使われており、鉄砲職人がそれまで日本にはなかった“ネジ”という構造に対応すべく火造りという鍛治法で性能を重視した鉄の使い分けを実施していたのである。』と述べられている。
では、和銃はどう作られたのか。和銃の銃身製作法の資料には『一貫齊國友藤兵衛傳』などがある。
それらによれば、銃身の製造には、たたら鉄(和鉄)が使用される。まず、銃身の銃腔を作る互金は、管状に鍛造される。この鉄筒を使った銃身は一般に「うどん張り」と称される。すなわち「安物」という意味合いを持つこの銃身では、弾丸発射を繰り返して行っているうちに次第に銃身が薄くなり破裂の危険性が高まるが、さらに銃身に鉄を巻き付けて補強する方法を編み出している。これを「二重巻張り」といい、和銃では一般的であり、銃身に「二重巻張り」と彫ってあるのが常である。
そして、肝心の尾栓のネジ切りについては、各地の鉄砲鍛冶の間でも秘中の秘とされていたと思われる。
ネジ切りのタップは、主要な和銃生産地として有名な滋賀県の国友でも使用されていたようであるがその雌ネジ・雄ネジの製造過程は詳細に述べられておらず、日本で最初のネジ切りがどこで完成されたかということは確定することができない。
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以上、我が国の銃砲の発展の礎となった和銃の成り立ちを大まかに述べてみた。精密に加工され、命中精度も大幅に向上している現代のスポーツガンとは比べるまでもない言わば原始的な銃であるが、その国産化の過程で培われた職人の技術と精神は鉄砲鍛冶をルーツとする高知のミロクをはじめ現代の日本製スポーツガンにも受け継がれているはずだ。
火縄銃をきっかけに、日本製スポーツガンの歴史と魅力を再発見していただけたら幸いである。
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霜 禮次郎 (しも れいじろう)
1937年、千葉市生まれ。東京慈恵会医科大学卒業。1972年、霜整形外科医院開業。全日本クレー射撃選手権大会、および国民体育大会のスキートで2度の優勝、1980年モスクワ・オリンピッククレー射撃日本代表候補選手の経歴。また1992年バルセロナ・オリンピックではライフル射撃選手団総監督、ロサンゼルス、ソウル・オリンピックでは射撃日本代表チームの専属ドクター、東京2020パラリンピックでは射撃大会会長も務めた。世界射撃連合医事委員、日本ライフル射撃協会理事などの要職を歴任。現・日本前装銃射撃連盟会長。2018年に旭日双光章を受章。
和銃の歴史 文芸社/定価 1,760円
本稿のベースとした拙著。海外における銃砲の発展史を含めて和銃の歴史や特徴、独自進化の背景をより詳細に解説している。



